2020/04/18
アートに身を捧げてきた半生
1950年代から約30年間、香港では衣類などの製造業が盛んだった。香港を代表する映画スター、ブルース・リーが、映画『ドラゴンへの道』で着ていた白いランニングシャツも、メイドイン香港だったという。当時、綿花から糸を紡ぐ紡績の工業地帯だった荃湾エリア。そこで2008年まで稼働していた紡績工場をリノベーションしてできた複合施設が「ザ・ミルズ」だ。
一歩足を踏み入れると、そこには何とも気持ちの良い空間が広がっている。大きな吹き抜けを取り囲むように並ぶアート展示室やショップ、レストラン。建物はシンプルながらも、洗練されたデザイン。頭上には、100匹のこいのぼりの群れがゆうゆうと泳いでいる。これは、施設内にある美術館「CHAT」の企画展の一部だ。そこで主任を務めるのが高橋瑞木さん。閉鎖されて時が止まっていた紡績工場を、美術館として再生させた立役者だ
高橋さんは、根っからの「アートラバー」。学生時代から今まで、アートに身を捧げてきたと言っても過言ではない。10代のころから美術館が大好きだったという高橋さんは、早稲田大学でイタリアルネッサンス美術史、ロンドン大学東洋アフリカ学院で韓国と日本の美術史を学んだ。帰国後、大学時代からの友人であり、現在はアートを題材にした小説を多数発表している原田マハさんに誘われ、当時オープン前だった六本木ヒルズの森美術館設立準備室に所属。その後、日本で一番古い現代美術館のひとつ、水戸芸術館現代美術センターに学芸員として13年間勤務し、キャリアを積んだ。
高橋さんの主な仕事は「展覧会の企画」。海外ではこのような仕事をする人を「キュレーター」と呼ぶ。展覧会のテーマを考え、参加アーティストや作品を選び、どう見せるのが効果的なのか、展示方法や構成を考える。その仕事は「テレビの特集番組の制作に近い」と高橋さんは言う。
「移民の問題、女性問題など、今世界で起きている問題に関連するアートを集めることもあれば、彫刻が載っている台座は彫刻の一部なのか? 絵画の定義って何? どうやって決まったのか? というふうに、既存の約束事に疑問を投げかける展覧会を企画することもあります。作品の見せ方や構成を考えるときは、アーティストの主張をどう伝えるかだけではなく、鑑賞者にどう受け入れられるのかも気を配るようにしています」
マイナスの状態からのスタート
「展覧会を作るのが好き」でキュレーターとして活躍していた高橋さん。そんな彼女の評判を聞きつけ、新しい美術館を立ち上げ、運営するディレクターにならないかという話が香港から舞い込んだ。
「現代美術館の立ち上げと聞いていました。それなら、森美術館での経験やスキルを生かせるし、おもしろそうだと思って引き受けたんです。ところが初回の打ち合わせで、『聞いている話と何だか違うぞ』と気がついたのです」
実は新しい美術館が入る予定の施設「ザ・ミルズ」は、紡績工場の経営から、大手ディベロッパーに転身した南豊集団の一大プロジェクト。彼らは、香港の紡績産業や織物(テキスタイル)の歴史を伝える美術館を期待していたのだ。
「頭を抱えました。わたしは紡績産業の知識もない。広東語も話せない。紡績に関する資料も少ない。ゼロというより、むしろマイナスからのスタートでした」
それでも、元工場地帯に美術館を作るというプロジェクトは魅力的だった。最新デザインで生まれ変わる施設を見て、地元の人々はどう反応するだろうと興味が湧いてきた高橋さん。紡績産業の本を読みあさり、展示用には工場の元従業員のインタビュー動画を集めるなど、目の前の問題に1つずつ取り組んだという。
一番大変だったのは人材集め。香港には、アートを販売するギャラリーはたくさんあるが、美術館は少ないため、美術館立ち上げの経験者がいなかった。そこで常設展のデザインは、イギリスのアート界で権威のあるターナー賞を受賞した建築グループAssembleに依頼するなど、時には香港以外からも力を借りた。
「来場者何万人という目標を掲げて、戦略を練る方法もあるでしょう。でも、わたしは、それよりスタッフ全員とのビジョンの共有に力を入れました。『こういう美術館にしたい』という核の部分です。そのうえで、彼らの提案がビジョンに合致していれば、どんどん採用しています。そうすることが、スタッフのやりがいにつながり、CHATの活力になるはずですから」
CHATは、香港テキスタイル産業の物語を伝えつつ、展覧会やワークショップを通してテキスタイルやファブリックを複数の視点で考察することのできるアートセンターとして、設立され1周年を迎える。
「香港の方は、皆さん熱心にキャプションを読んで作品を見てくださるんですよ」と高橋さんはほほ笑んだ。
現代アートの魅力とは
「現代アートの作家は、同時代を生きているし、会うこともできる。作品と鑑賞者がコミュニケーションをとるチャンネルが多いのが魅力です」と高橋さん。今回展示エリアを案内していただいたが、作品の成り立ちや意味、作家のこだわりなど、知れば知るほど作品が生き生きと見えてくるのがおもしろい。
「現代アートは、難しいと思っている人が多いかもしれません。でも、なぜか記憶に残る作品ってありませんか? それは何かを持っている作品なんです。ぜひ、その作品がなぜ気になるのかを自分に問いかけて、自分なりの答えを見つけてください。作家や作品の背景などは、インターネットでもすぐに調べられますし、そうやって作品と対話するうちに、作品の意味がストンと腑に落ちる瞬間があるはず。それは、快感ですよ」
ある日、美術の知識も興味もなかったというスタッフが「CHATの展覧会に関わり、アーティストたちと話をするうちに、美術館学を勉強したいと思うようになった」と語った。これには高橋さんも胸が震えたという。
「わたしがこの仕事を続けるのも、素晴らしい作品やアーティストとの出会いがあるからです。良い作品には、人の感情を揺さぶり、動かす力が絶対にあります。1人でも多くの人に、CHATに来て、同じ体験をしていただきたいです」
*Hong Kong LEI vol.37 掲載
WRITER書いた人
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