2025/12/15
鮮菇豆腐煲
(シン グ ダウ フ ボー:廣東語発音)
きのこと豆腐の中華土鍋煮
台所で生姜を刻むと、細かな音が空気の奥へしみ込んでいきました。その静かなリズムに耳を澄ませていますと、長いあいだ胸の底へ押し込められていた街の鼓動が、まだどこかでわずかに脈打っているようにも感じられます。
にんにくをひとつ潰せば、鋭い香りがふっと揺れ、それに続いてやわらかな温もりが広がります。立ちのぼる匂いは、台所の空気をそっと震わせていくのです。
昔の香港の台所にも、たしかにこんな香りがありました……
湿り気を帯びた冬の風が、骨の裏側にまで入り込んでくるような季節にばあちゃんはクローゼットの奥から棉衲(ミンラップ)を取り出し、「はい、これを着なさい」と、静かにわたしの肩へ掛けてくれました。
棉衲は絹で仕立てられており、光をひそやかに吸い込みながら、角度によってわずかに光る――そんな、呼吸するような光沢をまとっていました。絹の内側には綿がしっかり詰められ、見た目よりもずっと軽く、そして驚くほど温かい。
袖を通した瞬間、冷えていた胸へ、じんわりと安心が染みわたっていくのです。その綿の層に宿った温もりは、体温そのものではなく、“誰かに守られていた記憶”であったのかもしれません。
立ち襟はきりりと整い、前合わせには細い布を結んだ釈迦結びが、蝶のように静かに並んでありました。小さなわたしは、その結び目を指先でそっとつまむのが好きでした。釈迦結びのひとつひとつを指で触れるたび、わたしの指先には、冷たさと温かさのあいだにある微妙な“気配”が残りました。冬が始まるたびに、その気配は深くなり、まるで香りが衣のなかでゆっくり育っていくようにも思えたのです。
香りには、時間を巻き戻す力があります。生姜の鮮やかさ、にんにくの丸み、醤油のわずかな焦げ、豆腐が煮えるときの甘い蒸気、きのこが吐き出す中華の気配。
冬の台所は、それらが幾重にも重なって立ち上る“層”でできています。その層と棉衲の柔らかな記憶がふと触れ合った瞬間、わたしはようやく「ああ、冬が来たのだ」と、静かに受け入れることができるのです。
香りは、目に見えないのに、最も確かな記憶を持つものです。誰かに触れられたときの安心、遠く離れた街の温度、もう戻れない季節のわずかな輪郭――そのすべてを、香りという形のない器にしまい込み、ふとした瞬間に、そっと蘇らせるのです。
日本の台所で土鍋を火にかけると、立ちのぼる湯気の向こうに、あの棉衲の絹の光沢や、整然と並んだ釈迦結びの影が、かすかに揺れながら立ち上ってきます。その一瞬だけ、わたしは香りに包まれた冬の香港を、まるで手を伸ばせば触れられるほど近くに感じるのです。けれど、湯気が静かに薄れていくと、目の前には現在の台所が戻り、もうあの冬も、あの温もりも、二度とそのままの形では帰ってこないことを、そっと悟るのです。
Tips:きのこは、一晩風に当てて軽く乾かしてから使うと、旨味がぐっと深まります。
材料(約2人分)
なめらかもめん豆腐 … 250g(1cm厚に切る)
片栗粉 ………………… 少々
好みのきのこ ………… 50g
玉ねぎ ………………… 1/4個(薄切り)
生姜(みじん切り) … 小さじ1
にんにく(潰す) …… 1/2かけ
わけぎ … ………………5cm(ななめ切り)
【合わせ調味料】
オイスターソース …… 小さじ2
醤油 …………………… 小さじ1
砂糖 …………………… 少々
胡椒…………………… 少々
水 ……………………… 150cc
ごま油………………… 少々
(仕上げ用:水溶き片栗粉 小さじ1〜2)
作り方
① 豆腐は1cm厚に切り、水気を軽くふく。表面に片栗粉を薄くまぶす。フライパンに油を熱し、両面がきつね色になるまで焼く。焼けた豆腐は、くずさないようそっと取り出す。
② 同じフライパンに油を少量足し、玉ねぎを先に炒める。 透明感と甘い香りが出るまでじっくり。玉ねぎがしんなりしたら、 生姜とにんにくを加え、弱火で香りを立たせる。
③ きのこを加え、軽く炒めて香りを引き出す。水150ccを注ぎ、オイスターソース・醤油・砂糖・胡椒を加えて混ぜる。
焼いた豆腐を戻し入れ、弱めの中火で5〜7分、静かに煮含める。水溶き片栗粉(小さじ1〜2)を回し入れる。ゆっくり混ぜ、とろみが立ち上がり、煮汁がほんのり照りを帯びたら火を止める。
④ 温めておいた土鍋に、③の具材と煮汁をすべて移す。最後にわけぎを散らしてごま油をかけて仕上げる。
【ワンジェさんよりお知らせ】
これまでこのコラムにお付き合いいただき、どうもありがとうございました。本稿をもちまして、第79回(2025年12月)を最終回とさせていただきます。
またどこかで、わたしの食にまつわる話をお届けできたら嬉しく思います。5年間にわたり、お読みいただき本当にありがとうございました。
雲姐(ワンジェ)
料理研究家。香港に生まれる。幼少期、平日は祖母、週末は料理が趣味だった父の手料理を食べて過ごす。オーストラリアへ移住を経て、結婚を機に日本へ移り30年。中国国際薬膳師、発酵食品ソムリエ、発酵ライフアドバイザーの資格を持ち、中華圏および日本の食文化への造詣も深い。現在は、日本の人々に香港料理を伝えるべく東京で活動中。
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