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2026/01/05

香港の老舗の歴史にまつわるお話を香港老舖記錄冊 Hong Kong Historical Shopsさんとのコラボでご紹介したいと思います。香港老舖記錄冊さんは、Facebookなどで香港の歴史的なお店を独自で取材して発信しています。香港文化の象徴として老舗の存在は欠かせない、老舗が存続していくことが香港の文化を盛り立てることだと言います。香港を愛するHong Kong LEI編集部のわたしたちもまた、昔から愛され続けている香港で誕生した商品が、どんな会社によって作られ、どんな背景で誕生したのか、また、どんなところで、どんなふうに作られていたのかなどを垣間見たくなりました。題して「香港オタクのための愛すべき香港老舗の歴史をたどる」です。でも長いのではしょりまして(笑)「香港老舗の歴史をたどる」と命名いたしました。どうぞよろしくお願い申し上げます。


今回ご紹介するのは、中式婚礼用品の店「永隆繡莊」です。半世紀以上にわたり中式婚礼文化を支えてきた永隆繡莊の歩みから、変化する婚礼観と手仕事の美意識をうかがうことができます。


永隆繡莊―旺角
創業:1970年
取扱:中式婚礼用品
住所:大角咀 洋松街64号 長發工業大廈11階11室2号(旧所在地:上海街415号)
文:杳三
写真:Monica

「女性に一つの家を与えること、それを『嫁(=嫁ぐ)』という」。しかし、家庭を築く前には婚礼の儀式をきちんと整える必要があります。嫁入りが順調であってこそ福と吉祥がもたらされると考えられてきたため、結婚という慶事をおろそかにすることはできませんでした。
西洋式ウェディングがまだ普及していなかった時代、中式の刺繍店(繡莊)は、婚礼衣装である裙褂や寝具一式の購入から、大妗姐(婚礼を取り仕切る年配女性)の手配までを一括して任せられる、結婚を控えたカップルにとって欠かせない存在でした。かつて油麻地・上海街には20軒以上の繡莊が集まり、人生の一大事である婚礼を支えていました。永隆繡莊もその一つでした。
しかし、半世紀の間に人々は次第に西洋式のウェディングドレスを好むようになり、伝統的な婚礼衣装の店は次第に衰退していきました。(中略)

永隆繡莊は、もともと張老氏によって創業されました。17年前からは、息子の妻である吳蘭花(張太)氏と、長年勤めてきた数名のベテラン職人が店を切り盛りしています。張氏はミャンマー生まれで現地の華僑にあたります。祖籍は広東省開平です。1960年代初頭に香港へ渡り、刺繍業に携わることを選びました。

当時はキャリアプランという概念はなく、職業は成り行きに任せて選ぶものでした。張氏は香港に戻った後、兄が経営していた「永華刺繍」に入り、技術を学びながら経験を積みました。数年後に独立し、仲間とともに「美華繡莊」を設立しました。1970年代に中式婚礼用品が隆盛を迎えると、再び資金を投じて永隆繡莊を創業し、店の切り盛りは妻に任せ、自身は外で働き続けていました。しかし、永隆繡莊の商売が繁盛し多忙を極めるようになったため店に戻り、夫婦で協力して経営することになりました。(中略)

最盛期には上海街に20軒以上の繡莊が立ち並び、「裙褂街」とも呼ばれていました。中環の擺花街や威靈頓街と並び、裙褂の集散地を形成していました。同業店が集まることで多くの婚礼を考えるカップルを引き寄せるだけでなく、生地やスパンコールの供給業者、刺繍職人にとっても商機を開拓しやすい環境でした。

永隆繡莊では、縁起の良い日には1日に50着もの裙褂が貸し出されたこともありました。販売や経年劣化により役目を終える衣装があっても、常に200~300着を在庫として揃えていました。しかし、西洋式ウェディングプランが普及し、ドレス、撮影、メイクまで含むワンストップサービスが主流になると、伝統的な店の需要は次第に減少していきました。2000年代初頭に張太がこの業界に入った頃には、最も良い日でも貸出数は20~30着程度にまで落ち込み、近年ではさらに減少しています。

婚礼にまつわる文化は常に変化しており、それを見る側の価値観も柔軟でなければなりません。現在では、黒い裙褂は落ち着きすぎていて、威厳がありすぎるという印象を与えがちですが、そうしたイメージも永遠のものではありません。張太によれば、「褂」という衣装はもともと、宮廷官服を仕立てていた職人が民間で店を開いたことから広まったもので、20世紀半ばまでは、婚礼の新郎新婦が黒い裙褂を身にまとうのが一般的で、格式の高さを表していました。

しかし美意識は時代とともに変化し、黒は次第に「古風」な色と捉えられるようになり、現在では花嫁は総紅の裙褂を選び、年長者が黒を着ることが多くなっています。また、裙褂は購入しておけば、還暦や米寿、結婚式など、他の慶事でも着用できます。このように、裙褂は時代の流れとともに変化する存在であり、ファッションと同じく、決して不変のものではないのです。

さらに、かつての新郎新婦は完璧さよりも婚礼が滞りなく円満に進むことを重視していました。永隆繡莊で扱われてきた裙褂や寝具の選び方からも、その価値観をうかがうことができます。以前の裙褂は、デザインや刺繍の密度が比較的簡素で、「小五福」や「疏金紅」といった意匠が主流でした。裕福な家では刺繍の多い高密度(密袴・密地)のものが選ばれましたが、特別にデザインを指定して誂えることは少なく、「小五福」「中五福」「刺繍を多めに」「赤を強めに」といった簡単な要望を伝え、既存の中からサイズや縁を重視して選ぶのが一般的でした。
選択肢が少なかった時代には、裙褂と一緒に龍鳳布団、同心枕などの婚礼寝具一式を購入することもありました。それは手軽さを求めたのではなく、婚礼は簡素で滞りなく進むことこそが吉であると考えられていたからです。

香港経済は既製服産業を基盤として発展してきましたが、刺繍業もまた高度な手仕事を担う重要な役割を果たしてきました。1960年代頃までは、繡莊は馴染みの職人や女性工員と協力して裙褂を制作していました。すべて手作業で行われるため制作には長い時間を要し、図案は龍鳳を基本としながら、牡丹、鴛鴦、金魚、福鼠、蝶、石榴、祥雲など、縁起の良いモチーフが施されていました。

制作には、簡素な「小五福」でも2~3か月、金銀糸を多用した最も豪華な「褂皇」では1年近くを要しました。しかも、刺繍の針運びや表現の統一を保つため、可能な限り一人の職人が最初から最後まで手がけるのが理想とされ、そこには工業化以前の美意識が色濃く表れていました。しかし人件費の高騰と市場縮小により、1980年代以降、褂片(刺繍部分)の制作工程はすべて中国本土で行われるようになりました。

手作業で作られた裙褂は丁寧な保管が必要なため、「褂盒(クワ箱)」が用いられてきました。もともとは鉄製で、積み重ねやすい硬い箱に赤と金の円形文様が印刷されていました。他の繡莊でも同じ型の箱が使われていたことから、同一の職人によるものだと推測されています。しかし、裙褂の需要減少とともに鉄工職人も引退し、鉄製の褂盒も次第に姿を消し、その後は布製の褂盒が登場しました。

流行とは、スタイルや要素が形を変えながら世代を超えて繰り返される循環だと言われています。裙褂は日常着ではありませんが、ファッションとしてのデザイン性と美的要件を備えています。現在は大きな循環の中で一時的な退潮期にあるだけで、20年、30年後には新たな創意が加えられ、伝統が刷新され、西洋式ウェディングドレスの主流に再び挑む存在として蘇る可能性もあるでしょう。

@winglung_

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