2022/08/05


はじめに
Hong Kong LEIのWebコラム「キリ流香港散策」を連載中のキリさんが、2022年1月に『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』という本を出版しました。この本はキリさんが、明治~昭和期の日本偉人の香港来訪記録を調べてまとめたものです。
日本の多くの歴史的偉人が香港に来ていたこと、その偉人たちは香港のどこへ行き、何を見たのか、香港からどんな影響を受けたのかなどを、キリさんの本を日本語訳にする形でお伝えしたいと思います。
このコラムは『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』の一部分の翻訳であり、また文字数の関係から意訳しているところもあるので、内容をより深く知りたい方はぜひキリさんの本をお手にとってください。

第1回 夏目漱石 香港旅程:1900年9月19~21日

1900(明治33)年、32歳の夏目漱石は、文部省の命を受け、英語教育法を研究するためイギリスのロンドンへ留学する。のちの偉大な小説家となる彼は、イギリスへ行く前にまず、イギリスの植民地である香港に寄った。滞在は2日ほど。漱石は日記をつけており、香港到着前の心情や健康状態、見た風景などを記録している。この「漱石日記」を通して、わたしたちは漱石の見たイギリス植民地時代の香港を探ることができる。

国から派遣されて留学した漱石やその他青年たちは、横浜港から「プロイセン号」に乗船した。当時、プロイセン号に乗って欧州へ留学した若者の中にはドイツ文学者の藤代禎輔(1868~1927)、農学者の稲垣乙丙(1863~1928)、国文学者の芳賀矢一(1867~1927)がいた。

漱石はこの頃すでに健康に不安があり、軽度の神経衰弱であった。日記によると、香港に到着する二日前に船は中国・福州に到着したが、漱石は船酔いと下痢で弱っていたという。翌日は波風も穏やかで、近くの島を観光し、胃腸もだいぶ回復した。しかし数日雨が降りやまず、じめじめ濡れた甲板が終始彼の生気を奪った。体調があまり良くない漱石にとって船上生活はかなり苦痛だっただろう。雨天が彼を不愉快にするのなら、ロンドンの気候に適応するのが困難だったことは想像に難くない。

1900年9月19日は水曜で、小雨が降っていたが次第に晴れた。プロイセン号は午後4時頃に香港に到着し、九龍側の埠頭に停泊。かつて熊本にいた漱石は、ビクトリアハーバーの両岸の景色と、絶え間なく行き来する小さな蒸気船を見て、九州の馬関と門司の海峡のようだと日記に書いている。そして遠方に望むビクトリアピークの層楼や海岸沿いに並ぶ建物に感嘆した。一方で、当時香港にあった日本旅館「鶴屋」にも行ったが、清潔感がないと失望している。

筆者が調べたところ、この旅館は「娘子軍」(海外に売られた日本女性たち)がおり、紙幣偽造事件に関与していたようだ。

その夜、漱石は皇后大道(クイーンズロード)を散策。日記には船から眺めた香港の景色を記している。

「食後Queen’s Roadを見て帰船す。船より香港を望めば万燈水を照し空に映ずる様、綺羅星の如くといわんより満山に宝石を鏤めたるが如し。diamond及びrubyの顕飾りを満山満港満遍なくなしたるが如し。時に午後九時」(「漱石日記」明治33年9月19日(水)抜粋)

漱石はクイーンズロードを散策した時、皇后大道8Aにあった「梅屋(梅谷)写真館」――孫中山に援助した日本人・梅屋庄吉が開いた写真館――を訪れただろうか? 日記には何も書かれていない。ただ漱石に同行した芳賀矢一の日記には、「梅屋」を訪れたという記録があるから、漱石も行った可能性は否定できない。

漱石はその夜、旅館に泊まったのか船で寝たのか記録はない。しかし確かなことは、この日の日記で、体調のことには触れず、ビクトリアハーバーの景色を絶賛していたということだ。

翌9月20日(木)は香港島へ行き、ピークに登った。芳賀矢一の日記を参照すれば、彼らが乗ったスターフェリーの名は「Morning Star」で、1898年から3隻あるフェリーのうちの1隻だった。この名は21世紀の今日まで使われており、今も世代の代わったMorning Starを見ることができる。

初代Morning Star(写真:キリさん提供)

現在のMorning Star(写真2枚:キリさん撮影)

 

漱石はピークトラムに乗り、「六十度位の勾配」に驚きながら山頂に向かった。頂上からの眺めを「非常な好景なり」と記し、また「心地悪き」くらいの勾配を下った。

1990年代の香港といえば、スターフェリーとピークが日本人にとって二大観光スポットだった。漱石はこの二つの必見ポイントを見逃さなかったのである。

漱石は香港から二通の手紙を送った。受取人は妻・鏡子と友人・正岡子規の生徒だった高浜虚子。高浜虚子はのちに娘を連れて来港している。

1900年9月20日午後4時、プロイセン号は出帆し、漱石の短い香港の旅は終わった。

日記は、翌21日は天気のみで、22日に「午後、香港より海上六百四十一哩(マイル)の処を行く」と記された。漱石は次の到着地、シンガポールへ向かっていた。

 

※「漱石日記」の引用は、すべて‎ 平岡敏夫編「漱石日記」(岩波書店 、1990年)を参照した。

 


コラムの原本:黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』(2022年1月、三聯書店(香港)有限公司)

 

〈著者プロフィール〉
黄可兒(キリ)
香港中文大學歷史系學士、日本語言及教育碩士。日本の歴史や文化を愛し、東京に住んでいた頃に47都道府県全てを旅する。『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』は、夏目漱石研究の恒松郁生教授との縁で、2019年から始めた日本偉人の香港遊歴研究をまとめて上梓したもの。

 

キリさんのWebコラムはこちら「キリ流香港散策

 

翻訳:大西望
Hong Kong LEI編集。文学修士(日本近現代文学)。日本では明治期文学者の記念館で学芸員経験あり。


 

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