2020/03/06

挫折の連続だった若いころ

「高校生のときは、硬派な世界に憧れて応援団に入ってね。仲間がなぐられたらみんなで仕返しをしに行ったり、やんちゃなこともしていましたよ」と目を細めて笑う松久信幸さん。彼が俳優ロバート・デ・ニーロ氏と経営するホスピタリティグループは、40数店舗の「NOBU」レストランと10軒のホテルを世界中で展開。13年前に香港のインターコンチネンタルホテル内にオープンした「NOBU」は、日本から届く新鮮な食材を生かした料理で、香港の食通たちをうならせている。

今や世界中にその名を知らしめ、多くのセレブリティとも交流がある松久さんが、はじめてビバリーヒルズに自身の店を構えたのは38歳のとき。そこまでの道のりは長く、苦難の連続だった。

松久さんが、寿司職人になると決めたのは、子どものころ。年の離れた兄に連れていってもらった寿司屋で、その雰囲気や職人の様子に魅了されたのだという。そして、17歳で東京の寿司店「松栄鮨」で修行を始め、7年経ったある日、転機が訪れた。日系ペルー人の常連客から、ペルーで寿司屋をオープンしないかと誘われたのだ。松久さんは、その申し出を二つ返事で引き受けた。

「僕は7歳で父親を交通事故で亡くしていてね。材木屋を営んでいた父が、買い付けに行ったパラオで撮った写真を眺めては、いつか父のように海外へ行きたいと思って
いたんです」

今から約50年前に当たる当時、南米のペルーで寿司作りに必要な米や酢を手に入れるのは、至難の業だったという。試行錯誤する中で、松久さんはペルーの郷土料理を取り入れたメニューも考案した。魚介類のマリネ「セビチェ」をアレンジした料理は、今も「NOBU」の代表的なメニューのひとつだ。日本料理を基本としながらも、新しいものを取り入れるNOBUスタイルは、ここから始まったといえるだろう。その3年後、ビジネスパートナーとの衝突などを理由にアルゼンチンへ渡ったが、のんびりとした居心地の良さに、このままではいけないと帰国を決意。しかし、日本では南米での経験が評価されないと感じた松久さんは「今度こそ」という思いで、アメリカ最北端のアラスカでの出店の誘いに応えることにした。

店は繁盛し、うまくいくように思えたが、ここで予想だにしない出来事が起きた。留守中の火災で、店が全焼してしまったのだ。自分の店と希望を失い、借金を抱えた松久さんは、当時、水を飲んでも吐いてしまうほど生きる意欲を失っていたという。「当時のことを思うと、今でも苦しくなります。自分で命を絶とうとまで考えていましたから。ですが、今になってやっと、あの経験があったから今の僕があると感謝できるようになりました」と松久さんは言う。

「あのときどうやって立ち直ったのかは、自分でもうまく説明できません。ただ、あのときと同じ思いは二度としたくないという思いで、ベストを尽くしてきました」

NOBU HOTEL オープニングイベントで、長年のビジネスパートナーであるロバート・デ・ニーロ氏と。

幸せは後からついてくるもの

アラスカでの火災後、共に帰国した家族を日本に残し、松久さんは再びアメリカで寿司職人として働き始めた。それから9年後、ついに38歳でビバリーヒルズに「Matsuhisa」をオープン。当時は早朝から買い付けと仕込みをし、夜中に帰宅という日々だったそうだ。「NOBU」の原点として今も人気を集めるこの店は、ハリウッドの著名人を魅了し、アメリカにおける日本食ブームの先駆けとなった。そして、常連客だったロバート・デ・ニーロ氏に誘われて、ニューヨークに「NOBU」を開店。その3年後にはロンドン、ミラノと次々と店を開き、無我夢中の40代だった。松久さんは、行く先々で目にする食材や文化、新しいものを仕事に取り入れるのが楽しくてたまらなかったそう。

「自己満足のためではなく、お客様に喜んで食べてもらえる料理を作るのが料理人なのです。1つの料理ができても、どうすればさらに良くなるかを常に考え、各々の料理のクオリティーを上げる。そしてお客様に気持ち良く料理を楽しんでいただくために、サービスにも気を配る。そうするうちに、周りから注目され、人が集まるようになる。成功すれば、いろいろなオファーが来る。そうやって会社が大きくなっていきましたね」

「生きる」とは、目の前にある問題を自分のやり方で解決していくこと。その積み重ねで将来が決まるのだと松久さんは語る。

「幸せは与えられるものではない。結果としてついてくるもの。僕は、自分が健康で、情熱を持って仕事ができる今が幸せです。この幸せが続くように、旅先でも必ずジムやプールで身体を動かすし、人との付き合いも大切にする。常に感謝の気持ちを持って、自分のベストを尽くすことが大切なのです」

1987年ビバリーヒルズにオープンした「Matsuhisa」の前にて。
無鉄砲でも良いから、チャレンジを!

松久さんは、皿の上の料理を見れば、作った人の料理への考え方、熱意がわかるという。NOBUのシェフには、日本料理を基本とするNOBUの料理だけでなく、心を込めて作る姿勢を伝えたい。そのために、松久さんは1年のうち10カ月は世界中を飛び回り、従業員ひとり一人と話をする。

「意見を求められたら『僕はこう思う』という話し方をするように心がけています。押しつけるのではなくてね。若い人には『無鉄砲でも良いからチャレンジしなさい。そして失敗したら、そこから学びなさい』と言っています。頭で考えているだけでは、成長はないですから」

自身も、若いころは投げやりになったり、人生が思い通りにならない経験をたくさんした。前に進もうともがく日々の中で、人との出会いがあり、どんなときでも信じてついてきてくれた妻や、周りのサポートがあった。だからこそ、今は自分がみんなにチャンスを与える番だと思っている。

「もらったチャンスを生かせるかどうかは、本人次第です。僕が関わる人たちには、そのチャンスを逃さずに、ハングリー精神を持って前に進んでほしい。若い子たちにとって、僕は近寄りがたいのかもしれないけれど、『もっと来いよ! 話したいことがあるならおいでよ!』 と言いたい」

挫折や経験を100%自分の糧として進化し続け、世界にその名を知らしめた1人の料理人。インタビュー後、力強く握手をしてくださった松久さんの手は、がっしりと分厚く、とても温かかった。

*Hong Kong LEI vol.36 掲載

WRITER書いた人

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