2026/07/03
『Swan Lake(白鳥の湖)』の王子役を踊る高野さん @Courtesy of the Hong Kong Ballet
「Lalamove」でヴァンを配車し郵便局まで荷物を運んでもらい、家事代行サービスに家のクリーニングを頼んで、家具の引き取り業者を「Toby」で手配したら、数日前何も終わっていなかった引越しも案外スムーズに終わった。まさに資本主義の最先端をゆく香港だ。段取りという言葉は存在していないかのように、お金さえ支払えばなんでも短時間で解決できる。(僕の段取りが悪かったのではなく、香港バレエの公演『眠りの森の美女』が忙しすぎたのです)しかも今回は大家が契約行使の際に賃料を引き上げたから、新しいアパートに行くとかではない。僕は5年住んだ香港、5年ガムシャラに踊り続けた香港バレエを去るのだ。
5年前、コロナ禍中に僕は香港に来た。3週間隔離、稽古場を追い出されては新たな拠点を探すノマドバレエ団だった。入団前のオーディションに来た時は、黒服をきたデモ隊が香港文化中心の周りを取り囲み、チムサーチョイのMTRは封鎖されていた。まさに香港は激動の地だ。家のあるSoHoのあたりは3ヶ月毎に新しいお店ができては潰れていく。国の仕組みが変わっても街の喧騒は相変わらずで、人々は群衆をかき分けて前へ前進していく。眠らない街(本当にアメリカ時間で仕事をしている人もいる)は常にイベント続きで、踊りに集中してない時もあった。この超資本主義の中、商業的にならざるをへないバレエへの失望も感じたことがあり、モチベーションが上がらない時もあった。ただそんな中でも毎朝バーにつき、タンジュ(足を横に床の上で動かすバレエのステップで、最も基本の動作)を始めることだけは欠かさなかった。香港バレエでいつも主役を踊っています。プリンシパルダンサーですと言ったら華やかであるように聞こえるが、タンジュをするときは超絶地味で自分の無力さを痛感させる。モチベーションがない時でもタンジュを始めれば無心になり、自ずと踊りへの渇望が湧いてくる。調子が良い時はタンジュをしただけで背中に羽が生えたかと思い、逆に体に痛みがあったり疲れている時は、錆びついてチェーンの外れた自転車のように感じる。二日酔いの朝でも、嫁と喧嘩して気分がすぐれない朝でもそれでもタンジュをしない朝はないのだ。タンジュは僕の意地でもあり、逃げない証でもあって、そして踊りの原動力であり、過去と未来をつなぐ継承性をもつものだ。(僕はロシアで学んだタンジュなので、正統派かつ力強い自信はある。現に僕は香港バレエのダンサーで1、2を争う怪我への耐性がある)
『Alice in Wonderland (不思議の国アリス)』(左)のドードー鳥役の高野さん。『The tutu academy(チュチュ・アカデミー)』(左)のエイリアン役の高野さん。@Courtesy of the Hong Kong Ballet
『The Great Gatsby(華麗なるギャッツビー)』のジョージ・ウィルソン役を踊る高野さん(中央)。この役で香港ダンスアワード(最優秀男性ダンサー賞)を受賞。@Courtesy of the Hong Kong Ballet
5年間、カカシになったときも、ドードー鳥になったときも、エイリアンになって古典的バレエから離れたときもタンジュは欠かさなかったし、ギャッツビーで香港ダンスアワードを受賞したときももちろんしていた。
そして今回、『眠りの森の美女』 の前に僕は香港バレエで最後のタンジュをした。しかもパートナーは天下のモスクワ、ボリショイ劇場のプリマバレリーナだ。タンジュひとつだけで彼女がいかに優れたダンサーで、いかにモスクワでロシアメソッドを叩き込まれたかがわかった。練習期間はそこまで多くなかったが、タンジュを共有するダンサーと踊るのにそこまで一緒に合わせる必要はなかった。コミュニケーションを取らなくても意思疎通が取れるのだ。正直香港バレエで踊ってくる中で、全て楽だったわけではなく、苦もそれなりにあった。だが最後にあのような素晴らしいダンサーと踊る機会を作って花道を用意してくれたバレエ団には感謝しかしていない。というよりも楽しい思い出しか残らなくなった。
『The Sleeping Beauty (眠れる森の美女)』王子役の高野さん。
今までロシアでタンジュを学び、ジョージアで、そして香港でタンジュを実践してきた時は、古典バレエ、もしくはそれに準ずるテクニックを使うためのタンジュをしてきた。しかし今回、香港を離れた後はもっとコンテンポラリーのレパートリーを持つバレエ団に移る。そしてそのダンサーの中にはクラシックバレエのバックグラウンドがあまりないものもいる。言ってみればテクニックのためのタンジュを必要としなくなるかもしれないのだ。それでも僕はタンジュをし続けるだろう。新天地でもうまくいかないことや、反対に心が浮かれるようなときもあるだろう。そんなとき目の前の現実とからだに目を向けさせ、今までやってきた継続性に意地と誇りを感じさせることができるのだ。
香港のアパートを引き払い、スーツケースをタクシーに載せて空港へ向かった。上環のアパートから空港までの間、香港の夜景を楽しみ、そして感傷的になるかなというつもりでいたら、ウーバーの運転手の運転がうまくてすっかり居眠りして、気づいたら空港だった。
なんだか、グッバイという気にもなれず、というよりいつかまた帰ってくる気がして、これくらいドライな別れがいいのかもしれない。その時もしかするとダンサーを引退しているかもしれないがタンジュくらいはやっているかな。

高野陽年
立教大学中退後、2011年にロシアの名門ワガノワバレエアカデミーを卒業し、世界的振付家ナチョ・ドゥアトの指名を受け、外国人初の正団員としてロシア国立ミハイロフスキー劇場に入団。主にドゥアト作品で活躍した後、2014年に世界的バレリーナのニーナ・アナニアシヴィリに引き抜かれ、グルジア国立トビリシ・オペラ・バレエ劇場に移籍。ヨーロッパ、北米、日本を含めさまざまな劇場で主役を務めた。2021年より香港バレエ団に活動の拠点を移し、2024年には香港ダンス連盟より最優秀男性ダンサー賞を授与され、プリンシパルダンサーに昇格。さらに活躍の場を広げている。そして学園生活をとりもどすべく?イギリス公立オープン大学でビジネスマネージメントを専攻中。
高野陽年さんは本コラムをもって香港を去りますが、連載は今後も隔月で継続されます! 次回からの公開日は、奇数月の3日です。新天地での彼の新たな冒険と活躍を、どうぞお楽しみに! (編集部より)
Hong Kong LEI (ホンコン・レイ) は、香港の生活をもっと楽しくする女性や家族向けライフスタイルマガジンです。
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