2023/07/20
「Hong Kong LEI – Cover Story」は、香港でがんばる人をご紹介するシリーズ企画です。当記事は、健康と食の安全をお届けする Tasting Table Japan Premium より当企画への賛同と協賛をいただき制作しています。
「香港を語りたかった。その歴史を語りたかった」
(目次)
<シャーロック・ホームズは香港在住の中国人!?>
<香港の歴史の中のモリス家>
<リアルな歴史を伝えていきたい>
<モリスさんへの3つの質問>
<シャーロック・ホームズは香港在住の中国人!?>
「日本翻訳大賞」という文学賞をご存じだろうか。識者と読者が忖度なしに「応援したいか否か」という観点で選考する、翻訳文学に贈られる賞だ。2023年、栄えある大賞に選ばれた2作品のうちの1作が香港の探偵小説「辮髪のシャーロック・ホームズ―神探福邇(フーアル)の事件簿」だ。本作はシャーロック・ホームズがもし、19世紀の香港で活躍する中国人だったら?という想定で、中国語で書かれている。
「辮髪のシャーロック・ホームズ―神探福邇(フーアル)の事件簿」書影。
タイトルにある「福邇(フーアル)」とは主人公のホームズに当たる中国人探偵の名であり、相棒で医師のワトソンに扮するのは中医*の華笙(ホアション)。作中の事件も実際に当時の香港で起こった事件や風俗が当てられ、ホームズの話を見事に19世紀香港に再構築しているのだ。この奇想天外な作品の著者は香港人のトレヴァー・モリスさん。生まれも育ちも香港、生粋の香港っ子のデビュー作がいきなり海外で出版され、しかも賞までさらってしまうという快挙を成し遂げたのだ。
「僕はずっと香港を語りたかった。その歴史を語りたかったんだ」。カジュアルなアロハ風シャツに身を包んだモリスさんの目は作品の事を語るときにキラキラと輝く。「小さいころからシャーロック・ホームズが大好きで、いつか探偵小説を書きたいと思っていた。香港の歴史的な物語にも興味があったから、この作品は一石二鳥。世界的にファンの目が厳しいシャーロック・ホームズ作品のパスティーシュと歴史との整合性、という点で作業時間は2倍かかったけど」。
ユーモアも交えながら語る姿はアロハシャツと相まっておどけた人物のように映る。しかしながら彼の言葉の選択の的確さ、物腰の柔らかさなど、身に備わった教養と品の良さが見え隠れし、元香港大学准教授で現作家という肩書に、さもありなんと納得させられる。
注*)中医は、中国、東洋の伝統医学に基づく漢方薬・治療法・病理学・医学理論・医学文化と従事する医師を指す。
<香港の歴史の中のモリス家>
彼が幼少期から香港の歴史にただならぬ興味を抱いていたのは必然かもしれない。モリスさんはその出生とファミリーヒストリーが香港の歴史に度々顔を出しているのだ。
モリスさんが「彼は真の教育者だった」と誇らしげに語る祖父、アルフレッド・モリスさんは英国出身。1926年、現在も西營盤に残る名門校「英皇書院(King’s College)」を創設し、初代校長に就任した。アルフレッドさんはその後、救急救命組織「セント・ジョンアンビュランス(St. John Ambulance)」 の共同創設者としてまだ医療の手が届いていなかった新界の地で救急救命法の普及活動に従事し、地元住民の大きな尊敬を集めた。
(写真左)モリスさんの祖父、アルフレッド・モリス(莫理士)さん。セント・ジョン アンビュランス長官として制服を着ている。(写真右)モリスさんの祖母、羅惠德さん。看護師としてアルフレッドさんと共に救急救命活動に従事した。(ともにモリスさん提供)
モリスさんの母、エレノアさんは黎明期のテレビで活躍し、現在は慈善活動に従事している。モリスさんの父、アランさんもまた多くの肩書を持ち、多数の本を著した。「父は予言の解説書やレシピ本を書いていたよ。僕自身は予言なんてインチキだと思ってるんだけど」とモリスさんは笑い飛ばすが、母と共に香港の人々にはよく知られた存在だ。
そして妹のカレン・モクさんは香港の銀幕歴史に名を刻む有名女優。ウォン・カーワイ監督の「天使の涙」では香港アカデミー賞と言われる電影金像奨の助演女優賞を受賞した。
いわゆる「名家」に生まれ育ったモリスさん自身も、幼少期から家族の動向を知らせる新聞記事などに登場してきた。
モリスさんの幼少期の頃。母のエレノアさん、妹のカレンさんと一緒に。(モリスさん提供)
そんな背景を持つ家族に囲まれて育ったモリスさんは、幼少から文化的に充実した生活を送っていたようだ。シャーロック・ホームズをはじめとする探偵小説を読み漁り、中国の武術をたしなみ、仮面ライダーなど日本のヒーローものを熱愛し……多方面に興味のアンテナを巡らせ、探求心を満たしていった。
特に祖父母の家族など年長者に多く囲まれる生活だった彼は、年配の人たちがする話に心惹かれた。昔話はもちろん、リアルタイムの話ですら、「過去の価値観」というフィルターがかかっていることが興味を掻き立てた。モリス少年は成長の過程で歴史に関する知識を好奇心旺盛な脳みそに自然にインプットしていったのだ。
<リアルな歴史を伝えていきたい>
「自分は1900年代初期の香港を生き抜いた先人たちの経験を実際に見聞きした最後の年代なんだ」とモリスさんは語る。作品の舞台となっている20世紀初期はちょうど彼の祖父母の年代にあたり、彼らと過ごした幼少期の思い出は作品の中で生き生きと再現されている。
例えば作中でワトソンに相当する役どころの華笙が西洋人の女性について「臭い」「鼻が大きい」とネガティブに描写する場面がある。「当時のアジア人の美的感性では、西洋女性は受け入れられにくかったんだ。僕の祖母も、銀幕で初めて西洋映画を観られるようになった当時、西洋の女優が美しいとは思わなかったと言っていた」。
モリスさんはこれらのリアルな描写を通じて、読者が「現代の目」で当時の解釈をするのを阻止したいのだという。あくまで19世紀末から20世紀初期の香港の歴史、風俗に忠実に作品を描き、それを丸ごと読者に理解してもらいたいというモリスさんの熱意の表れだ。
1870年代の閣麟街(Cochrane Street)。セントラルのヒルサイドエスカレーター沿いの道に当たる。「小説の1章目のタイトルにもなった『紅毛嬌街』(Gutzlaff Street)の写真は現存してないのだけど、この写真の閣麟街と平行していたから、当時の紅毛嬌街もこんな感じだったのだろうと思う」とモリスさん。
実は「香港の歴史」というのは存在するようでしない、微妙なジャンルらしい。日本には「日本史」という確固たる学問分野が存在するが、香港は世界史やアジア史、中国史の一部としてしか語られないのが一般的。香港人が「香港の歴史」だけを切り取って、深く学ぶ機会はほとんどないのだという。教科書では香港の歴史の始まりとも言うべき一大イベント、アヘン戦争ですら世界史の一部としてしか扱われていないという。
モリスさんは「大きな絵の全体を見ることは大切。でも、その絵を構成する小さな小さな出来事の積み重ねを調べることで、もっと興味深いことがわかるのに」と、もったいないとばかりにため息をつく。
昔から香港の歴史に惚れこんでいた彼には、香港の歴史に人々の興味の目が向いていないことがもどかしいようだ。「辮髪のシャーロック・ホームズ―神探福邇(フーアル)の事件簿」は香港人からシャーロック・ホームズへの恋文であり、シャーロキアンから香港へのラブレターでもあると語るモリスさん。香港とその歴史を愛して止まない彼は、香港の市井の人々が日々経験してきた小さな小さな歴史を世界に知らせようと、ペンを走らせ続けているのだ。
<モリスさんへの3つの質問>
Q1 マンケイブ(秘密基地)をお持ちとのことですが、中には何があるんですか?
ゲームとパソコンと……それから、お気に入りのおもちゃのコレクションが全部あります。子どもの頃によくテレビで観ていた仮面ライダー、ウルトラマン、スターウォーズなどですね。中でも初代仮面ライダーは一番のお気に入りです。
Q2 作家になる前は、ドキュメンタリー映像の制作にも従事していたそうですが、過去に携わったドキュメンタリー番組で、思い出深い作品はありますか?
1970年代の香港映画「ショウ・ブラザーズ」シリーズで使用された架空の武器、「空飛ぶギロチン」をご存じですか?鐘の形をした武器で、鐘の中に回転式の刃物が仕込んであるんです。それで敵の頭を「首ちょんぱ!」にするんですけど、各方面の専門家を招聘して、それを実際に作成するというドキュメンタリーを制作したんです。くだらないと言えばそうなんですけど、本当に楽しかったですね。実際に使用できるものが完成したんですよ!
Q3 今後のプロジェクトは?
「辮髪のシャーロック・ホームズ」の中国語版は4巻まで出版予定で、日本語訳も順次出版される可能性が高いです。また、2024年にはラジオ局RTHKでラジオドラマ版が放映予定となっています。その他にも大きな展開が……、ごめんなさい、まだ詳細は明かせません(笑)。あと、作家仲間たちと書き溜めている短編集のテレビシリーズ化を企画しています。
モリスさんの近著 「偵探冰室・食」 (星夜出版)。モリスさんをはじめ、9人の作家による共著シリーズの最新作(中文)。
Hong Kong LEI (ホンコン・レイ) は、香港の生活をもっと楽しくする女性や家族向けライフスタイルマガジンです。
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2 件の意見
コメントをいただきありがとうございます!日本翻訳大賞の投票にも参加なさり、モリスさんの他のインタビュー記事もお読みになっている方から、今回の記事が最も深いとご感想をいただいて編集部一同ほんとうに嬉しく思っています。いつも応援いただきありがとうございます!(編集部より)
『辮髪のシャーロック・ホームズ』は香港とホームズという好きのダブルで買ってみたら一気に何度も読み返しすくらい面白くて、すっかり福邇と華笙のコンビに落ちてしまいました。日本翻訳大賞でも投票しましたし、大賞を受賞したときは本当に嬉しかったです。また、作者のトレヴァー・モリスさんに興味がわき、インタビューは幾つか見聞きしましたが、こちらの記事が最も深いように思います。インタビューしてくださってありがとうございます!
『辮髪のシャーロック・ホームズ』の続刊が邦訳で日本で発売されるのを心から願っています(訳者はもちろん舩山むつみさんで)。そして、トレヴァー・モリスさんの他の作品も読めたら嬉しいですね。これからも応援しています。