2025/07/20
「Hong Kong LEI – Cover Story」は、香港で輝いている人をご紹介するシリーズ企画です。当記事は、健康と食の安全をお届けする Tasting Table Japan Premium より当企画への賛同と協賛をいただき制作しています。
僕の選んだ人生は、お金以上に価値のあるものを手に入れる人生
Web : https://www.peaceneverdie.com/styled-14/index.html
聞き手:紅磡リンダ
編集:野津山美久
カバー写真撮影:山形宗次郎
〈目次〉
〈青信号に後押しされて〉
〈47歳の大学生〉
〈タラレバは叶っていく〉
〈大江さんに3つの質問〉
〈青信号に後押しされて〉
「こんにちは」尖沙咀のホテルのロビーに現れた男性は、Tシャツにゆったりした短パン姿。香港の庶民的な米線のお店で食事をする自らの写真を指差して「ねぇ、僕、お客というより、お店でヌードル作る人に見えない?」と気さくに笑うその人こそ、大江千里さん。1980年代から2000年代初めにかけて日本のミュージック・シーンで大活躍。音楽に、ドラマに、司会にと様々な分野で大きな人気を博した、押しも押されぬポップスターだ。そんな彼は今、ニューヨークを拠点にジャズピアニストとして活躍しており、今回はチャリティーライブのために来港した。
2025年、香港の米線屋にて Photo Courtesy of Senri Oe
「ポップスをやっていた人がジャズ?」と不思議に思う人も多いかもしれない。実は、大江さんは若い頃からずっと、心の底ではいつかジャズをやりたい、ジャズの本場で勉強したいと思っていた。ポップミュージックを作っていた時代も、曲にジャズの要素を取り入れてみたり、通信教育で英語の勉強をしたりと、長い間ジャズに対する情熱をくすぶらせていたのだ。そして、ついに47歳の時、ジャズの専門教育で知られる音楽大学に通うべく、単身ニューヨークに渡った。輝かしいキャリア、名声、収入が約束された日本を飛び出したのだ。
日本で大人気だった頃 Photo Courtesy of Senri Oe
実はこの頃、母、そして友人の死を経験した。当時飼っていた犬との別れも重なり、精神的にはボロボロだったという。しかし、大江さんはこう思った。
「一度しかない人生、10年後、20年後に今を見返したとき『俺、結構楽しそうにやってるじゃん』って笑えるような人生にしたい」
そのためには、自分が今どう生きているかということでしか答えは出せない。だから、自分で自分の背中を押して、ニューヨーク行きの飛行機に、新しい相棒、ダックスフントのピース君と乗ることを決めた。「あのリープがすべてだったんだ」と大江さんは当時のことを振り返る。
そして、驚くことに、その決断に反対する人はいなかった。周囲の人々は皆、大江さんのジャズに対する熱い思い、そしてそのためにコツコツと勉強していたことを長い間見ていたからだ。当時のマネージャーは「会社には僕が話を付けます。今、オフィスを出たら、もうジャズマンとして生きてください」と、大江さんのキャリアチェンジを後押しした。友人のミュージシャン、渡辺美里さんも「千里ちゃんの、ジャズの未来にカンパーイ!」と、新しい人生を力強く支持してくれた。「ニューヨークで勉強すると決断を下した途端、信号が次々に青になっていったんです」。
ニューヨークに移住したばかりの頃 Photo Courtesy of Senri Oe
〈47歳の大学生〉
ニューヨークの音楽大学に入学し、夢だったジャズの勉強を始めた大江さん。しかし、現実は甘くなかった。「ジャズは初心者だけど、俺、こう見えてプロだし」と心に淡く抱いていたプライドは、入学初日にして無残に消え去った。同級生5人で演奏するという課題で無様に「脱輪」。この日から、ジャズを知らない奴に関わっても意味がないと、周囲は大江さんを相手にしなくなった。大江さんの半分の年齢の同級生は皆、英語も達者で、音楽の実力も相当なものだった。学校のスタジオで練習すると、漏れ聞こえる彼らの演奏と自分の腕を無意識に比較してしまい、気持ちが滅入る。大江さんは愛犬であり戦友でもあるピース君に見つめられながら、ひたすら自宅アパートで一人、ピアノを弾き続けた。
愛犬であり戦友でもあるピース君とともに Photo Courtesy of Senri Oe
しかし、そんな辛い状況のなか、大江さんは対策を編み出していく。
「周囲に声を掛けても無視されるような時は、『Hey! Whacha talkin’ ’bout? 』って、イケてて自信たっぷりのニューヨーカー役を演じたんです」
日本で培った俳優の経験が役に立ち、同級生とコミュニケーションが取れるようになっていった。また、どうしてもやりきれない気持ちに陥った時は、日系のスーパーで日本食を買い込んで気を紛らわせたり、ハドソン川のほとりでワインを一杯だけ飲む、というストレス解消方法も見つけた。そして、「そうやっているうちに、だんだん」手ごたえを感じることが増えていった。
〈タラレバは叶っていく〉
ゆっくりだが着実と、ジャズの実力を付けていった大江さん。大学のアンサンブルの発表会で拍手喝采をもらったり、「ソフォモア・ジューリー」と呼ばれるプロのミュージシャンが評価を付ける、パフォーマンスベースの試験に合格したり、学校から演奏の機会や仕事を紹介されることも増えた。そして、無事に卒業を迎えることができた時、ふと気づけば周囲の同級生は皆、母国に帰ったり、さらに新天地に活躍の場を求めてニューヨークから去っていた。
「いつの間にか、クラスで一番できなかった生徒(自分)だけがニューヨークに残って、ジャズを続けているんです」
音楽大学の卒業式 Photo Courtesy of Senri Oe
大江さんは現在、ニューヨークで自分のレコードレーベルを立ち上げて、ジャズアルバムを発表し続けている。3枚目のアルバムは米国、日本だけでなく世界でも発売。ライブ活動を地元ニューヨークで精力的に続けながら、5月には香港でも開催、7月からは日本ツアーも開始、とますます活動の場を広げている。
ニューヨークのジャズクラブ「バードランド」でのセッション Photo Courtesy of Senri Oe
日本でのキャリアを手放し、ジャズの本場ニューヨークで夢を叶えた大江さん。
「僕の選んだ人生は、お金以上に価値のあるものを手に入れる人生。人生のタラレバ(~だったら、~れば、という仮定)は星の数ほどあるけれど、そのどれもが、本気で選んだ時点で夢は既に叶い始めてるって思うんです」
大きなものを捨てて、大きなものを手に入れた大江さんだからこそ、この言葉には重みがある。
〈大江さんに3つの質問〉
Q1 3歳でピアノを始められたのは、ご自身の選択だったんですか?
父が僕にドボルザークとか、クラッシックをずーっと聴かせてて。それから、幼稚園にピアノの上手い子がいて、その子の横でずーっと連弾をしてたんです。それで家帰ってもピアノ、ピアノ、って言い続けた上にクレパスで襖に「エボニー・アンド・アイボリー」(ピアノの意味)って書いちゃって。親がこの子にはピアノを買うしかないよね、って。YAMAHA のピアノを買ってもらいました。当時は補助台に足を乗せて。
Q2 ご自身のことをポジティブなタイプだと思いますか?
思わないですね。いいこともあるし、そうじゃないこともあるし。決してポジティブだけではないです。いつも、どうしよう、どうしようって悩んでます。でもそれでは物事は陽転しないので、例えば自分がヒーローの気分で、千葉真一とか、ショー・コスギとかアメリカで成功した日系俳優になりきり、道を切り拓くイメージをシュミレーションするんです。そうすることにより、客観的視点ができ、日々の努力が楽しくなるんです。
Q3 海外で活躍する日本人に向けて、メッセージをいただけますか?
白ご飯とみそ汁と鮭を大切に。加えて、たまにカレーライスとナポリタンを作れば元気になれる。これはマイケル・ジャクソンにもマイルス・デイビスにもない、日本人の僕たちにしかないガソリンなんです。日本人にしかない繊細さ、正確性、それは世界に出てこそ役に立ちます。その個性をふんだんに活かすためにも、よく食べて、自分を大切にして。チャンスが来た時に、いつでもエンジンやジェネレーターをフルで回せるように。
Hong Kong LEI (ホンコン・レイ) は、香港の生活をもっと楽しくする女性や家族向けライフスタイルマガジンです。
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2 件の意見
記事をお読みいただき、大江千里さんへのメッセージもいただきありがとうございます!(編集部より)
千里さん この間の静香Aoi館のコンサート行きました。
わたしは千里さんの80年代のPOPSを聴いていましたが そこまでたくさん聴いていたのではなくYouTubeで夏川りみさんと かぐや姫の僕の胸でおやすみを聴いてファンになり その後 JAZZピアニストになられた事を知りました。千里さんの奏でる音にはとっても癒されています。そしてとても落ち着きます。大人こそ聴きたくなる音楽ですね。アルバムも購入しました。過去のシングル曲と今のアレンジを聴き比べて楽しんでいます。応援してます。これからもずっと音楽に対する情熱を持ち続けて頑張ってください。