2023/02/04


はじめに
Hong Kong LEIのWebコラム「キリ流香港散策」を連載中のキリさんが、2022年1月に『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』という本を出版しました。この本はキリさんが、明治~昭和期の日本偉人の香港来訪記録を調べてまとめたものです。
日本の多くの歴史的偉人が香港に来ていたこと、その偉人たちは香港のどこへ行き、何を見たのか、香港からどんな影響を受けたのかなどを、キリさんの本を日本語訳にする形でお伝えしたいと思います。
このコラムは『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』の一部分の翻訳であり、また文字数の関係から意訳しているところもあるので、内容をより深く知りたい方はぜひキリさんの本をお手にとってください。

第7回 大谷光瑞 訪港:1899年1月26日~2月2日


大谷 光瑞(おおたに こうずい)
1876(明治9)年 ~ 1948(昭和23)年、京都出身の宗教家、探検家。西本願寺第21世法主大谷光尊の長男として生まれ、9歳で得度。1900年から仏蹟の発掘調査に海外へ出かけるようになる。大谷が中央アジアに派遣した学術探検隊は「大谷探検隊」と呼ばれ、シルクロード研究などにおいて貴重な成果を挙げた。

大谷光瑞は外遊経験が豊富な人生で、ロンドンへの留学やシルクロードの探検、発掘調査などの折に、何度も香港を経由している。初めて香港に降り立ったのは、1899年の初め、23歳の時で、九条道孝公爵の娘籌子(かずこ)と結婚したばかりだった。

同年1月19日、光瑞は京都西本願寺住持として、教学参議部総裁の武田篤初(とくしょ)ら9人と中国まで遊覧及び布教状況の視察に行っている。彼らは神戸から上海を経由し、1月26日木曜に香港に到着した。光瑞のこの香港初訪問は、教学参議部編集『清国巡遊誌』(1900年出版)に記録されている。その中には、香港への感慨を表した五言律詩が載っている。

 

峰巒三千尺 島在海濤中 雲閣倚山頂 月樓通水風

繋泊無危険 貿易極盛隆 嘆息南京約 割地與他邦

 

香港に到着した光瑞は、日本領事館、三井物産、横浜正金銀行の担当者に迎えられ、皇后大道中のウィンザーホテル(溫莎酒店)に宿泊した。

1月27日、三井物産支店長と朝に会談し、午後3時に一同で香港ガーデンに行った。香港ガーデンは、1854~1859年まで香港総督を務めたジョン・ボウリングの意念で1864年に造られた。『清国巡遊誌』には、香港ガーデンは有名な庭園で、世界中の植物や樹木が集められ、特に東南アジアの植物が美しく、香りの良い北方の草花もあると記されている。また、庭園の中央にある噴水とその前にある第7代香港総督ケネディの銅像について記録している。親善も兼ねて伝教に来た光瑞にとって、40年後、日本軍がこの銅像を日本に運び、それを溶かして武器にするとは、想像だにしなかっただろう。

次に光瑞一行は、聖ヨハネ主教座堂を参観し、近くのピークトラム乗り場からトラムに乗って山頂へ向った。光瑞たちはイギリスについて知識があり、この山がビクトリア市(*)の後方にあることからビクトリア山と名付けられていることに気づいた。

『清国巡遊誌』によると、山には兵営、旅館、別荘があったという。景観が美しく、ビクトリアハーバーにはイギリス軍艦パワフル号やセンチュリオン号をはじめ、十数艘の軍艦が停泊しているのがはっきり見えた。

翌1月28日、光瑞と他2人は日本領事館で領事の上野季三郎を訪問。午後、香港大会堂の中にある博物館、劇場、図書館などを見学。当時、香港歴史博物館は大会堂の中にあり各種動物の剥製、貝殻、鉱物、古銭、古代の武器などを陳列していた。記録によると、大会堂前には実業家の寄付で造られた噴水があったという。夜は、三井物産の長谷川支店長と晩餐会。

現在の香港大会堂
大会堂の横には展城館(シティギャラリー)がある

1月29日は忙しい1日で、領事の上野季三郎が光瑞一行を連れて九龍参観。九龍の道路は平坦で街は整備されていた。1892年にガス会社が設立してから街灯はガス灯になった。インドの兵舎はロビンソンロード(羅便臣道)——現在のネイザンロード(彌敦道)——にあった。光瑞たちは丸一日領事館の人々に案内され、晩餐も領事館でだった。

光瑞は1日休息を取り、1月31日火曜には多くの日本人の訪問を受けた後、外国人墓地へ行った。『清国巡遊誌』の記録では、墓地は市街地の東にあり、外国人は「Happy Vally」と呼んでいたという。それが今日のハッピーバレー(跑馬地)だ。この墓地は宗派別に分かれており、キリスト教、カトリック教、ユダヤ教、イスラム教が一角を占めている。キリスト教の墓地は整備されており、中央に噴水があり、草花も美しく咲いている。西洋人は墓地を重視しており、日本人とは比較にならないほどだと記されている。

わたしたちは、光瑞の香港訪問記を通して、1867年の大火、1874年の巨大台風、1894年のペストについて知ることができる。香港は多くの災害を経て生まれ変わってきたが、イギリス人の努力の成果だと敬服せざるを得ない。

画像は、黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』より

香港と光瑞の実家である京都の西本願寺は明治時代から深い関係があると言われている。1902年11月12日発行の「中外日報」の記事「英国香港と西本願寺」によると、香港は東西の文化が交流し各種船舶が集まる場所であることから、各宗教も香港での布教を試みた。1924年の香港日報社「香港案内」に詳細があるが、西本願寺の高田栖岸(たかた せいがん)は1900年に単身香港に来た。1923年には京都本山からの資金で湾仔路117 号の4階建の建物を布教所とした。この組織は、香港日本人会、仏教婦人会、香港日本人小学校、日本人倶楽部、日本人青年会などと繋がりがある。

元香港日本人学校関係者の樫村富士夫氏によると、学校は1907年11月に湾仔本願寺布教所によって開設され、「香港本願寺小学校」という名だった。約2年後、「香港日本人小学校」に改名したという。残念ながら過去の学校記録を探しても「香港本願寺小学校」の詳細は見つけられなかったが、『香港日本人学校沿革概要』の中にだけその名があった。

2月2日に香港を離れた光瑞一行は、それぞれのグループで広州、天津、北京を訪れ、李鴻章とラマ僧正と面会。5月3日に神戸へ戻ってきた。

 

(訳者注)
*ビクトリア市は、1842年に香港がイギリス植民地となった後、最初に都市化した地域を指す。現在の中環一帯。

 

2023年6月5日現在、樫村富士夫氏の肩書きについては「元香港日本人学校関係者」と訂正しました。関係者の皆さまにはご迷惑をおかけしたことをお詫び申し上げます。

コラムの原本:黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』(2022年1月、三聯書店(香港)有限公司)

 

〈著者プロフィール〉
黄可兒(キリ)
香港中文大學歷史系學士、日本語言及教育碩士。日本の歴史や文化を愛し、東京に住んでいた頃に47都道府県全てを旅する。『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』は、夏目漱石研究の恒松郁生教授との縁で、2019年から始めた日本偉人の香港遊歴研究をまとめて上梓したもの。

 

キリさんのWebコラムはこちら「キリ流香港散策

 

翻訳:大西望
Hong Kong LEI編集。文学修士(日本近現代文学)。日本では明治期文学者の記念館で学芸員経験あり。


 

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