2023/03/05
はじめに
Hong Kong LEIのWebコラム「キリ流香港散策」を連載中のキリさんが、2022年1月に『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』という本を出版しました。この本はキリさんが、明治~昭和期の日本偉人の香港来訪記録を調べてまとめたものです。
日本の多くの歴史的偉人が香港に来ていたこと、その偉人たちは香港のどこへ行き、何を見たのか、香港からどんな影響を受けたのかなどを、キリさんの本を日本語訳にする形でお伝えしたいと思います。
このコラムは『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』の一部分の翻訳であり、また文字数の関係から意訳しているところもあるので、内容をより深く知りたい方はぜひキリさんの本をお手にとってください。
第8回 与謝野晶子訪港:1912年10月27日
画像は、黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』より
与謝野晶子(よさの あきこ)
1878(明治11)年~ 1942(昭和17)年、大阪府出身の歌人、作家。処女歌集『みだれ髪』で注目され、後の夫となる与謝野鉄幹が創刊した詩歌雑誌「明星」で浪漫主義文学の中心として活動。日露戦争従軍の弟を思う詩「君死にたまふことなかれ」が反響をよんだ。女性解放思想家として女性の社会的地位向上にも尽力した。
1911年、日本歴史上初の女性文芸雑誌『青鞜』が出版された。
11月8日、与謝野晶子の夫、鉄幹は横浜からヨーロッパに向けて船に乗った。妻子に宛てた彼の書簡には、香港での見聞や印象などが書かれている。
11月20日、与謝野鉄幹は香港に到着。ピークトラムでピークに向っている時、ビクトリアハーバーのパノラマを見て驚いた。ビクトリアハーバーで船から香港の夜景を眺めた時は、丘の上に金銀の宝石が散りばめられているように輝いて見えたという。
晶子が夫を追いかけて行った与謝野夫妻のヨーロッパ旅行については瀬沼茂樹著『日本文壇史』に詳しく記されている。晶子がヨーロッパへ行くためには、旅費と子どもたちの生活費を工面する必要があった。
東京日日新聞、実業之日本社、三越呉服店(現在の三越)から旅費を提供してもらった。他に森鴎外に日比翁助(ひび おうすけ)を紹介してもらい、一千円の補助を受けた。
資金調達後、次は旅行中の子どもたちの生活が問題となる。当時11歳だった長男の与謝野光は、回想録の中で、明治44年に同じ地区で引っ越しをして、父親の妹である静子が子どもたちの面倒を見ることになったと述べている。晶子は出発前、「叔母さんが来てくれるから、頑張りなさい」と子どもたちに“命令”したという。
晶子がヨーロッパへ出発したのは明治45年5月5日。その旅行期間中に明治天皇が崩御。年号が大正に替わった。1912年は明治45年だが、大正元年でもある。
東京新橋駅を出発し、まず北陸地方の敦賀まで行き、そこから船でロシア、シベリア鉄道でパリへ向かった。当時、見送りに集まった人は500人近くで、中には女性解放運動家の平塚雷鳥もいた。与謝野晶子が出発時に詠んだ短歌は、後に石碑となりロシアの極東連邦大学にある。
ヨーロッパに滞在中、有名な彫刻家ロダンを訪ねた。彼の有名な作品「地獄の門」は、現在東京上野公園にある国立西洋美術館の正門に設置されている。
数か月海外で過ごしたことで、晶子はホームシックになってしまった。子どもたちのことを考えると精神が不安定になり、ドイツ滞在中、産婦人科の近江湖雄三(おうみ こうぞう)医師の診察で妊娠が判明した。これが機となり、夫をヨーロッパに残して一人帰国することになった。
帰国を決めてから、フランスのマルセイユ港に到着し平野丸に乗って日本へ向かった。その帰路で晶子は平野丸の船上から香港の景色を眺め、夫と同じように香港の情景を記した手紙を宛てた。
香港の夜の灯は珠玉なりと君のかねて云ひ給ひしが、この港に入り候ひしは夕も過ぎし頃にて、甲板へ出でし私の目は余りのまばゆさに暈まむと致し候。
(「平野丸より良人に(三)」与謝野寛、与謝野晶子「巴里より」(青空文庫)、底本:「巴里より」金尾文淵堂、1913年)
また晶子は香港島の山脈は京都円山を10倍にしたようだと書き、山の傾斜に立っている建物の青、黄、紫の明かりや海岸近くの赤い火などを映しだすビクトリアハーバーの情景が想像を超える美しさだったという。
翌朝、また山の街を船から眺め、夜景に劣らない情景が気分を良くした。しかし、一部の行商が真鍮の器を並べて商売を始めたり、本物ではない孔雀の絹物を左右から見せつけたりするのを苦々しく思ったという。
恐らく、妊娠の影響で晶子の心境は複雑だったのだろう。彼女の記録から、郵便のことで思い悩んでいる様子がうかがえる。「香港に来ても、東京からの手紙は届きません」。子どもたちへの想いは、晶子が宛てたポストカードにもみられる。彼女が旅行中、ずっと離れている子どもたちのことを考え、子どもでも分かるようにカタカナで葉書を書いていた。香港に停泊していた時の憂いは、母としてだけでなく、妻としての感慨でもあるのだろう。
日本に戻った2年後、与謝野夫妻は共著を出版。ヨーロッパ旅行の記録を残し、教育の自由と女性教育の必要性を訴えた。4か月間のヨーロッパでの見聞は夫婦の人生と思想に多大な影響を及ぼしただろう。
コラムの原本:黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』(2022年1月、三聯書店(香港)有限公司)
〈著者プロフィール〉
黄可兒(キリ)
香港中文大學歷史系學士、日本語言及教育碩士。日本の歴史や文化を愛し、東京に住んでいた頃に47都道府県全てを旅する。『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』は、夏目漱石研究の恒松郁生教授との縁で、2019年から始めた日本偉人の香港遊歴研究をまとめて上梓したもの。
キリさんのWebコラムはこちら「キリ流香港散策」
翻訳:大西望
Hong Kong LEI編集。文学修士(日本近現代文学)。日本では明治期文学者の記念館で学芸員経験あり。
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