2023/04/03


はじめに
Hong Kong LEIのWebコラム「キリ流香港散策」を連載中のキリさんが、2022年1月に『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』という本を出版しました。この本はキリさんが、明治~昭和期の日本偉人の香港来訪記録を調べてまとめたものです。
日本の多くの歴史的偉人が香港に来ていたこと、その偉人たちは香港のどこへ行き、何を見たのか、香港からどんな影響を受けたのかなどを、キリさんの本を日本語訳にする形でお伝えしたいと思います。
このコラムは『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』の一部分の翻訳であり、また文字数の関係から意訳しているところもあるので、内容をより深く知りたい方はぜひキリさんの本をお手にとってください。

第9回 渋沢栄一訪港:1867年2月24日~26日、1902年12月23日~25日


渋沢 栄一(しぶさわ えいいち)
1840年(天保11)年~1931(昭和6)年、武蔵国(現・埼玉県)出身の実業家。農民から武士、幕臣となり明治時代には官僚も務めた。さまざまな会社や経済団体、教育機関の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」と称された。1916年に出版された『論語と算盤』は現代まで読み継がれている。2024年度発行の一万円札肖像に採用された。

明治維新の際、多くの日本人識者が香港を経由して欧米に渡ったことはよく知られているが、徳川幕府も諸外国調査のため断続的に使節団を海外に派遣していた。 明治以前の青春時代に香港を訪れた渋沢栄一が、再び香港を訪れたのは35年後。 20代から60代まで、時代の絶え間ない進歩に加えて、彼の地位身分や見識も変わった。

渋沢栄一が最初に香港に来たのは1867年で、27歳の頃。フランスのパリで万国博覧会が開催された。フランス政府は徳川慶喜将軍を招待したが、当時の政治情勢が不安定だったため、将軍の弟である14歳の徳川昭武が代理で派遣された。博覧会への参加に加えて、列国を周遊し、パリで留学することも計画され、渋沢栄一らが随行した。

1867 年 2 月 15 日、徳川昭武一行はフランス船アルフェー号に乗船し、2月 24 日午前 10 時に香港に到着した。アンペラトリス号に乗り換える必要があるため、香港に2日間滞在。香港での体験は、渋沢栄一と後に明治政府の郵便制度確立に努めた杉浦譲が共著した『航西日記』に詳しい。そこには、船の設備が万全だったので陸上よりも生活が快適だったと記されている。コーヒー、紅茶、ハムなどのフランス料理は彼らにとって特別なもの。ハムは豚肉の塩漬けのようなもの、バターは凝固した牛乳のようで、パンに塗るとおいしい。食後、一杯のコーヒーを淹れ、砂糖と牛乳を加えて飲み、胸中が爽やかになったと記している。バターは臭いものと思っていた当時の一般的な日本人と比べて、渋沢栄一は外国の食生活への適応力が高かった。

また、『航西日記』では、香港を広東の端にある離島と表現した。港は山に囲まれ周辺地域は嵐を遮ることができ、港の水深は深く、多くの船を停泊させるのに十分だと記している。平地が少なく道路は山腹にしか作れない。海岸は中国人が住む場所で、半山(ミッドレベル)は欧米人が集まる場所。かつては荒れ果てた漁港だったが、イギリス領になってから山を築き、海を埋め立てて道路を整備し、各国から物資を輸送するための商業要塞となった。

さらに、香港はアジアに点在する国民の訴訟を審理するために裁判所を設置し、裁判官を在留させていること、英国式の刑務所の建物は雄偉で、囚人は犯罪の重さによって各工場で労働していることも記している。また、刑務所内に講堂があることを発見。囚人たちに過ちを悔い改めさせ、新しい人生を始められるよう導くためのものだ。若き渋沢栄一が囚人の教育に深い思いを抱いていたことは、記録からも読み取れるが、彼が香港で見聞したことは、数十年後の日本における教育を推進するための基礎となったことだろう。

その他、1866 年から 1868 年までの2年間のみ営業した銅鑼湾の香港造幣局(香港鑄幣廠)を訪れた。香港造幣局は経営不振により閉鎖され、スコットランドの実業家トーマス・ブレイク・グラバーが仲介して機械を明治政府に売却。香港造幣局に勤務していたポルトガル人のヴィセンテ・エミリオ・ブラガやイギリス人のトーマス・ウィリアム・キンダーも来日し、日本の経済発展に貢献した。引退した機械と職員の日記は、今でも大阪造幣局に保管されている。日本の初代造幣局(大阪造幣寮)の建築設計図を見ると、香港造幣局の建築設計図と非常によく似ていることがわかる。

それから35年後、日本は徳川幕府から明治中期になった。 1902年、渋沢栄一は欧米漫遊の帰路で再び香港を訪れ記録を残したが、この時すでに60代だった。クリスマスイブ前夜に香港に入港した船は、翌朝7時に九龍埠頭に停泊した。三井物産、日本郵船、正金銀行、東洋汽船、台湾銀行等の代表者が船に乗り込み、歓待した。滞在日数はわずか1日半。当時、彼は重要な地位におり、20代で来た香港での過ごし方とはまったく異なる社交に忙殺された。しかし、今回はビクトリアピークに登り、香港の魅力的な景色を楽しむことができた。彼の記録では香港でどのような企業が存在していたか見ることができるが、海運会社だけでもいくつもの社名が記されている。
クリスマス当日、各企業の代表者に一人ずつ別れを告げ、神奈川丸に乗り、正午に九龍埠頭を離れた。

渋沢栄一の欧米旅行記をまとめた『欧米漫遊の旅』には、当時の彼の目に香港がどのように見えたかが明確に記録されている。建物は主に西洋風で、ガス、電灯、電話、水道などの設備が整っており、市場には商品があふれている。 ヨーロッパ・アジア間の輸送ハブであり、貿易の要塞でもあった。英国政府の地道な努力の成果が読み取れる。


コラムの原本:黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』(2022年1月、三聯書店(香港)有限公司)

 

〈著者プロフィール〉
黄可兒(キリ)
香港中文大學歷史系學士、日本語言及教育碩士。日本の歴史や文化を愛し、東京に住んでいた頃に47都道府県全てを旅する。『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』は、夏目漱石研究の恒松郁生教授との縁で、2019年から始めた日本偉人の香港遊歴研究をまとめて上梓したもの。

 

キリさんのWebコラムはこちら「キリ流香港散策

 

翻訳:大西望
Hong Kong LEI編集。文学修士(日本近現代文学)。日本では明治期文学者の記念館で学芸員経験あり。


 

コメントをありがとうございます。コメントは承認審査後に閲覧可能になります。少々お待ちください

意見を投稿する

Hong Kong LEI (ホンコン・レイ) は、香港の生活をもっと楽しくする女性や家族向けライフスタイルマガジンです。

Translate »