2025/02/11
初めて林樹成先生と手を交えたとき、その技術の合理性と実用性に驚かされました。力任せではなく、身体の構造や角度、位置を寸分も狂わずに使いこなして相手を制するその動きは、まるで異次元の武術のようでした。その衝撃は、わたしを詠春拳という深い世界へと引き込むきっかけとなりました。
相手の攻撃を想定した木人を使った練習
香港での稽古の日々
わたしが詠春拳を本格的に始めたのは、旺角の秘密道場でした。週に2回、仕事を終えた夜の時間を稽古に費やす日々。道場に入ると、熱気が漂い、そこにいるだけで身体が自然と引き締まるような空気感がありました。師範や兄弟弟子たちと汗を流しながら、型や基本の動きを繰り返し練習しました。
ある日、林先生がある型の動きを指導しているとき、わたしは「なぜこの位置に手を置くのですか?」と尋ねました。それに対して先生は、「この位置にあれば防御と攻撃の両方に変化できるからだ」と力学の観点から丁寧に説明し、さらに実際の動きでその効果を見せてくれました。その瞬間、単なる手の位置が「身体が持つ力を科学的に活かす方法」として腑に落ちたのです。
その後、道場は深水埗に移り、稽古を続けました。さらに油麻地にある大学施設で日曜日のクラスが開講されると、週3回の稽古に通うようになりました。稽古の前後に、近くの茶餐廳(チャーツァーンテン)で食事をとりながら、兄弟弟子と武術だけでなく仕事など様々な話題について会話するようになりました。広東語で練習の後に食事を取ることを「食夜粥(セッイェジョック)」といいます。必ずしもお粥である必要はなく、わたしは好物の水餃子をよく食べました。こうして兄弟弟子との親交がさらに深まりました。
秘密道場の稽古帰りに見ていた旺角の通り
詠春拳の科学的な魅力
詠春拳では、型に含まれる動きが対人戦で活用できる仕組みになっています。たとえば、以前学んでいた空手では、型と組手の練習が分離されていることに違和感を覚えました。空手では型の動きを自由組手でそのまま使うことが少なく、型そのものが「形」や「伝統」として扱われることが多い印象でした。しかし、詠春拳では型の練習がそのまま組手に直結します。対人相手で使えない動きは価値がないとみなされます。
特に、対人稽古である「チーサオ(黐手)」がその特徴を際立たせています。型を通じて学んだ動きを相手との接触の中で実際に試し、反応を磨くことで、自然と組手に応用できるようになります。
たとえば、ある日林先生とのチーサオで、わたしは自分の反応が遅れ、相手の攻撃を受けてしまいました。そのとき先生は、「基本型の動きの時の肘の位置はどこにある?」と言いました。振り返ると、確かにその動作は基本型の中にある動きそのものでした。対人になると前腕の角度や肘の位置が知らず知らずのうちにズレていました。それ以来、型をただ反復するだけでなく、動きの意味を考え、相手の動きを想定しながら練習するようになりました。この過程で、型が単なるパフォーマンスではなく、実戦的な身体の「プログラム」そのものだと気づいたのです。
さらに、詠春拳の動きは合理的で、科学的な根拠があります。たとえば、「なぜこのタイミングで体を回転させ、肘の位置と方向はそちらに向けるのですか?」という問いに対して、林先生は身体構造や力の伝達の仕組みを使って説明してくれました。その答えをもとに動きを試すと、確かに最小の力で相手の攻撃をいなすことができました。この「合理性」と「再現性」が、詠春拳の大きな魅力だと感じています。
油麻地の天后廟。梁相師公が詠春拳を初めて教えた場所
香港で詠春拳と向き合う生活
稽古を続ける中で、わたしの香港での生活も詠春拳とともに変化していきました。仕事の忙しさに追われる日々の中でも、稽古の時間だけは特別なものでした。道場に足を踏み入れると、雑多な都市の喧騒を忘れ、自分自身と向き合う時間が始まります。そして、林先生や兄弟弟子たちとの交流を通じて、技術を深めるだけでなく、物事に対する考え方や姿勢を見直すきっかけにもなりました。
たとえば、ある兄弟弟子は仕事で大きなプレッシャーを抱えていましたが、チーサオの稽古ではそのストレスが動きに表れてしまい、攻撃が力任せになることがありました。林先生はその弟子に、「力を抜け(放鬆、ファンソン)。まず自分を落ち着かせろ」と声をかけました。その姿を見て、わたし自身も稽古中に無意識に力を入れすぎていることに気づかされました。詠春拳は身体だけでなく、心のバランスも重要なのです。
香港は人口が密集していて、とても狭い都市ですが、詠春拳は一人稽古であれば畳半畳のスペースでできます。わたしは仕事の昼休憩で食事を取った後、近くの公園で型の練習をすることもありました。公園の片隅で静かに動きを繰り返していると、通りすがりの人が立ち止まって見ていくこともあり、「お前も詠春拳をやっているのか」と話しかけられることもありました。香港の街そのものが道場でもあり、詠春拳を通じて様々な人々との交流が広がっていきました。
タッカー
葉問一番弟子の梁相師公の直弟子である林樹成師父の入室弟子(内弟子)となり、林一門では外国人として初の師範免許を取得。林樹成詠春國術會の助教(アシスタントインストラクター)として活躍するかたわら、香港で日本人などを対象にした香港詠春拳クラブ(Hong Kong Wing Chun Club)を主宰。2022年、香港武術教練公会(香港武術指導者協会)登録会員。
X:wingchun_tucker
IG: wingchun_tucker
Website: wingchun.fit
FB: lsswingchun
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