2022/01/15
病院を飛び出して
殺場からメキシコへ
「もともとはパンダの人工授精師になりたかったんですが、需要がないと教授に言われてあきらめました」
胚培養士のさやかさんは、そう言って笑う。胚培養士は、培養室で卵子や精子を扱う専門家。まさに、体外受精など不妊治療の要となる存在だ。
さやかさんが人間の胚培養に目を向けたのは、大学生のとき。細胞工学に興味をもち入学した大学の、獣医学の授業で、教授に「パンダでなく人間ではどうだ」と言われたのがきっかけだそう。
「大学1年生から、産婦人科の胚培養室でインターンをさせていただいて、その後アルバイトを始めました。そこでわたしが調整した精子を使って人工授精された方が妊娠されたと聞き、ああ、わたしは本当に誰かの役に立ったんだなあと思ったんです。そのときですね、胚培養士になろうと決心したのは」
大学卒業後、最先端の不妊治療を行う東京の山王病院に就職。3年間勤めてひと通りのことができるようになり、仕事はまさに順風満帆だった。しかし、さやかさんは山王病院を退社しようと決意する。アメリカで胚培養士の仕事ができるという話に強く惹かれたのだ。
「海外で働く日本人の胚培養士はほとんどいない時代でしたから、周りは猛反対でした。でも、わたしはどうしても海外で働いてみたかったんです」
ところがアメリカ行きを約束されていたはずが、話は思いがけない方向へ。卵子凍結に関するプロジェクトで渡米する前に、まずメキシコで実績を上げる必要があり、しかもメキシコで人間の卵子を使用する前に、日本で牛の卵子を使い十分に練習をしなければならないという話だったのだ。
「日本で練習した半年間、3日に一度は片道1時間半かけて屠殺場へ通いました。人間の卵巣に近いとされている、牛の卵巣を分けてもらうためです。ベルトコンベアーで運ばれてくる牛から取った卵巣が水筒に40個ほどたまると、工場長が2日間煮込んだテールシチューをごちそうになって(笑)。そこから1時間半かけて研究所へ戻り、翌朝まで寝ずに練習。肌もボロボロになり、あれはかなりきつかったですね」
やっとメキシコへ着くと、なんとプロジェクトに必要な機械が病院になかったという予想外の展開。しかし、さやかさんはめげなかった。日本の質の良い培養液を使い、卵子凍結保存の成功率を約20%引き上げるなどしてクリニックに貢献、胚培養士として活躍した。
「日本では、胚培養士は医療技術者であって、医師に意見を求められる立場ではありませんでした。ところが、メキシコでは医師と胚培養士が対等に意見を出し合って治療を行っている。充実した日々でした」
その後、日本へ戻り千葉のクリニックに勤務する傍ら、月に一度、仲間と共にタイやインドなどへ渡り、胚培養士のトレーニング、卵子バンクの立ち上げなどに関わってきた。さやかさんは「若いときだからこそ、できたことですよ」とほほえむ。
顔の見える胚培養士としてサポート
さやかさんは、次第に海外に落ち着き、そこで仕事をしたいと思うようになったという。そして、メキシコで和食が食べられずつらかった経験から、日本に近い香港を選び、やって来たのが6年前。当時、日本よりも遅れていたというセンターの胚培養室を、世界平均以上にひっぱり上げた。
現在、培養室主任としてラボをまとめながら、日本人の患者さんが診察を受ける際の通訳、薬の説明、カウンセリングなども行っている。香港でも不妊治療は盛んで、公立病院は予約から治療まで3年待ちだという。さやかさんのカウンセリングでは、人によっては日本での治療を勧めることもあれば、血液検査の結果次第では「早く治療を始めるほうが良いですね」
とアドバイスすることもある。
不妊の原因は人それぞれだが、香港では日本よりも男性不妊の患者が多いそうで、他の病院で精子が無いと言われて来院する方もいる。そんな患者さんの精液を濃縮し、遠心分離にかけ、1時間かけて精子を見つけた時は思わずガッツポーズ。一度は子どもをあきらめた方に、まだ可能性があるとお伝えできると思うと、「光を見つけたようで」うれしくなる。精子が少しでも見つかれば、そこから顕微授精(卵子に1匹の精子を注入して授精させる方法)を行い、妊娠することは可能なのだ。
「精子を見つけたときや、患者さんに妊娠判定が出たときは、こみあげてくるものがありますね」
卵を守るのがわたしの務め
日本と香港で大きく違うとさやかさんが強調するのは、日本のクリニックだと女性だけで来院する方が多いのに比べ、香港ではほとんどの患者さんがカップルで訪れるということ。日本人の女性は香港でも1人で診察に訪れる傾向があるが、良い結果を得るためにも、ぜひパートナーと一緒に治療にのぞんでほしいとさやかさんは語る。
「ご主人が仕事を休めないなど事情があるとは思いますが、つきそいが必要な採卵時にも奥さま1人でいらっしゃることがあるので、ご主人には『採卵後、数日間は家事をさせないでください! 副作用が出て入院になるとすごくお金がかかりますよ!』と、半分おどしながら、口をすっぱくして言います」
培養中の受精卵は、患者さんの名前の横にハートマークを書いて願掛けをするというさやかさん。訓練を積んできた顕微授精は、責任感を感じても緊張はしない。だが、育てた受精卵を体内へ戻すために医師の元へ運ぶときは、患者さんやご家族、医師の期待を一身に受けているため、いつになっても緊張するそう。
培養室で預かる卵のためなら、シグナル10の台風でも駆けつけられるように、自宅は病院から徒歩圏内。そんな彼女は、まさに卵たちを守るドクター。
「産婦人科の先生が赤ちゃんを見てうれしいように、胚培養士のわたしは受精卵が愛おしくてたまらないのです。自分の子どもを持つことへの興味はないのですが、卵への愛情は増すばかりです」
_
*Hong Kong LEI vol.47 掲載
WRITER書いた人
Hong Kong LEI (ホンコン・レイ) は、香港の生活をもっと楽しくする女性や家族向けライフスタイルマガジンです。