2022/10/05


はじめに
Hong Kong LEIのWebコラム「キリ流香港散策」を連載中のキリさんが、2022年1月に『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』という本を出版しました。この本はキリさんが、明治~昭和期の日本偉人の香港来訪記録を調べてまとめたものです。
日本の多くの歴史的偉人が香港に来ていたこと、その偉人たちは香港のどこへ行き、何を見たのか、香港からどんな影響を受けたのかなどを、キリさんの本を日本語訳にする形でお伝えしたいと思います。
このコラムは『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』の一部分の翻訳であり、また文字数の関係から意訳しているところもあるので、内容をより深く知りたい方はぜひキリさんの本をお手にとってください。

第3回 武者小路実篤:1936年5月9日


武者小路 実篤(むしゃのこうじ さねあつ)
1885年(明治18年)~1976年(昭和51年)、東京都出身の小説家・詩人・劇作家・画家。トルストイに傾倒し、志賀直哉らと文芸雑誌「白樺」を創刊。代表作に「おめでたき人」「友情」「愛と死」などがある。人生讃美、人間愛を語り続け、1918年には「新しき村」を建設して理想社会の実現に取り組んだ。

武者小路実篤が香港に来たのは50歳すぎで、すでに日本文壇では地位を確立していた。
それまでに関東大震災で罹災し、雑誌「白樺」の休刊も経験した。絵を描くことも始めていた。

上海から香港まで武者小路実篤の旅は、映画と地元民と常に一緒だった。彼は作家として、どんな場所にも自分の作品を好きな読者がいるはずで、たとえ作品を読んだことがなく名前を知っているだけだとしても、他人扱いされることはないだろうと信じていた。上海では、崔萬秋(訳者注:数々の日本文学を中国語訳した作家)と内山完造(訳者注:「内山書店」店主)に会った。香港に向かう途中、白山丸の船内で「上海と香港」「春の日本」という映画を鑑賞したり、各国の男女のさまざまな運命を目撃したり、小説家として感慨にひたることの多い日々だった。

崔萬秋著「東京見聞記」(写真:キリさん提供)

 

白山丸が香港に着く頃、ぼんやりとかすむ景色の中に何十隻もの帆船が海に浮かび、岸辺には堂々たる西洋建築が並ぶという美しい光景を目にした。しかし彼は、香港の貧しい人々はこのような場所にはおらず、観光客である自分がまだ見ぬ所にいるのだということも理解していた。
山頂の方には城のような豪華な家が建ち並んでいたが、ふもとにはひと際冷たさを感じる某イギリス銀行の建物が見えた。イギリスと日本のさまざまな経済関係は、香港が拠点となっているのではないかと思いを馳せた。
周囲にある木々や草花だけでなく、プランターに植えられた色鮮やかな熱帯植物も、香港の庶民が好んで植物を育てていることを発見し感動した。しかし武者小路の目には、香港は美しいと思いつつも、他の国際都市と比べるとそれほど珍しくは映らなかった。

日本の著名人が来港した際、香港にある日本企業社員が案内するという慣例があったが、武者小路の場合は内山完造から紹介された平岡貞(※)が案内した。また日本の著名人が香港旅行について記述する時、相手の組織や肩書きに言及するものだが、武者小路は平岡についてクリスチャンとだけ書いた。
まだ会っていない段階から、香港に住む平岡が、香港の刑務所にいる日本人受刑者に心を配っていることを聞いていた。8年間、毎週日曜に平岡は刑務所まで慰問に行っていたという。武者小路は世の中にこれほど心ある人がいるのかと感動した。
武者小路実篤にとって香港旅行は街を参観するよりも、友人の友人、つまり平岡貞を訪問することのほうが重要だった。武者小路の記述から、平岡家には子どもが居て、縄跳びで遊んだり、中国人のメイドが家事をしていたことが分かる。

この旅で、他の日本人旅行者には味わえない特別な香港体験を挙げるなら、港から南十字星を見たことと、喜劇俳優チャールズ・チャップリンとビクトリアハーバーですれ違ったことだ。
武者小路実篤は平岡貞と数名の文学仲間と昼食をとった後、映画館でチャップリンの最新映画「モダン・タイムス」を観た。その後、チャップリンが向かいの船で日本に向け出港する予定だと聞いた。チャップリンの船は、白山丸より少し早く出発した鹿島丸だろうと彼は考えた。

武者小路実篤は、香港での友人に別れを告げた後、ヨーロッパへの旅を続けた。

 

(訳者注)
※ 平岡貞(ひらおか ただす):生年不詳。1906年頃から1941年まで香港に住み、中環で「平岡貞商店」を営んでいたとされる。

 

 


コラムの原本:黄可兒著『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』(2022年1月、三聯書店(香港)有限公司)

 

〈著者プロフィール〉
黄可兒(キリ)
香港中文大學歷史系學士、日本語言及教育碩士。日本の歴史や文化を愛し、東京に住んでいた頃に47都道府県全てを旅する。『爐峰櫻語 戦前日本名人香港訪行録』は、夏目漱石研究の恒松郁生教授との縁で、2019年から始めた日本偉人の香港遊歴研究をまとめて上梓したもの。

 

キリさんのWebコラムはこちら「キリ流香港散策

 

翻訳:大西望
Hong Kong LEI編集。文学修士(日本近現代文学)。日本では明治期文学者の記念館で学芸員経験あり。


 

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