2026/09/06

香港の老舗の歴史にまつわるお話を香港老舖記錄冊 Hong Kong Historical Shopsさんとのコラボでご紹介したいと思います。香港老舖記錄冊さんは、Facebookなどで香港の歴史的なお店を独自で取材して発信しています。香港文化の象徴として老舗の存在は欠かせない、老舗が存続していくことが香港の文化を盛り立てることだと言います。香港を愛するHong Kong LEI編集部のわたしたちもまた、昔から愛され続けている香港で誕生した商品が、どんな会社によって作られ、どんな背景で誕生したのか、また、どんなところで、どんなふうに作られていたのかなどを垣間見たくなりました。題して「香港オタクのための愛すべき香港老舗の歴史をたどる」です。でも長いのではしょりまして(笑)「香港老舗の歴史をたどる」と命名いたしました。どうぞよろしくお願い申し上げます。
今回ご紹介するのは、かつて大坑(タイハン)にあった『致光玻璃鏡業』です。このエリアは、香港を支える一大支柱のガラス・鏡産業が栄えた場所でした。ガラス工場の『致光玻璃鏡業』の歴史を読むことで、香港のガラス事情も垣間見ることができます。残念ながら時代の流れに逆らえず歴史の幕を閉じてしまいました。しかし、彼らがかつて栄えていた時代を皆さんにも知っていただけると嬉しく思います。
創於:1961年
經營:玻璃鏡業
地址:大坑銅鑼灣道56號
撰文:Joy
攝影:Kevin Mak 街招 streetsignh
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大坑と聞くと、多くの人が真っ先に思い浮かべるのは、毎年中秋節に開催される「舞火龍(ファイヤードラゴンダンス)」の盛大な祭りや、おしゃれなカフェが立ち並ぶ文青(レトロ・カルチャー)エリアの街並みでしょう。しかし、もし1960年代の大坑に足を踏み入れたなら、そこは現在のようなレストラン街ではなく、機械の音が絶え間なく響き渡る小規模な工業コミュニティでした。当時は銅鑼灣(コーズウェイベイ)の貨物ターミナルに近く、地価も安かったため、大坑の内街には多種多様な町工場がひしめき合っており、なかでもガラス・鏡産業はこの街を支える一大支柱でした。当時最大規模を誇った「明新製鏡公司」が銅鑼灣道にあったほか、周辺にはガラスの裁断や研磨を担う小さな作業場が点在していました。強化ガラスがまだ存在しなかった時代、各家庭の窓ガラスから店舗のカウンター、さらには化粧台の鏡に至るまで、そのすべてがエリア内の職人たちの手作業による切り出しに頼っていたのです。
このような工業的な活気のなか、1961年に大坑で産声を上げたのが『致光玻璃鏡業(Chi Kwong Glass & Mirror)』です。創業者の黎継賢(ライ・カイイン)氏とガラスとの縁は1930年までさかのぼります。当時、黎氏は広州にあった南海人経営のガラス会社で専門技術を修得し、1950年に羅湖(ローユー)のイミグレーションが閉鎖される前に香港へと渡りました。その後、旺角(モンコック)や油麻地(ヤウマテイ)周辺で「晨光玻璃公司」を開業しましたが、実際の開業時期や経営期間については現在では定かではありません。1959年、姪の黎鳳蓮(ライ・フォンリーン)氏が中国本土から香港に移住。1961年、黎継賢氏は当時大坑の孔聖堂で教鞭を執っていた夫人の労恵芳(ロー・ワイフォン)氏の助けを借り、大坑華倫街(ウォーレン・ストリート)9号に『致光玻璃鏡業』を設立しました。黎継賢氏の手足が不自由だったため、姪の黎鳳蓮氏が叔父に従って致光で働き始め、ガラス工芸の技術を磨きながら長輩(叔父夫婦)の世話とサポートを続けました。店舗は1964年に銅鑼灣道58号へ移転し、その後1975年から76年の間に隣の56号へと移り、2024年4月に実店舗としての営業を終了するまでその地で歴史を刻み続けました。
致光の開業初期は、不動産市場の目覚ましい発展という追い風を受けました。当時は至る所でビルの建設が進み、工事現場が急増したことで、窓ガラス工事や住宅・店舗の内装需要が飛躍的に高まりました。当時、黎鳳蓮氏は運搬(ガラス持ち)や採寸、取り付け、裁断(ガラス切り)といった基礎工程から学び始め、後年にはガラスを裁断する際定規すら使わず、手作業だけで正確に切り出せるまでになりました。当時のガラスの規格は現在よりも薄く、厚さは主に一分から三分(約3〜9ミリ)程度で比較的軽量であったものの、長年の肉体労働は非常に体力を消耗するものでした。諦めようと思ったことはなかったかという問いに対し、黎鳳蓮氏はただ毅然とした意志で今日まで続けてきたと振り返ります。
一般的に、『致光玻璃鏡業』が受ける注文は建築工事関連が最も多く、工芸(加工)関連がそれに次ぐものでした。これはそれぞれの時代の居住環境と密接に関連しています。1987年から94年頃にかけては、住宅内装の玄関衝立やタンスの表面にガラス彫刻の装飾を取り入れるのが流行しました。よく使われたモチーフには「九如図(縁起の良い魚の図案)」や「竹」に関するデザインがあり、「肉なしの食事は耐えられても、竹なしの住居には耐えられない」という当時の住民の風雅な美意識を反映していました。その後、新築物件の部屋の面積が徐々に狭くなるにつれ、空間の制限からこうした大型装飾彫刻の注文は減少していきました。ガラス彫刻に関して、黎鳳蓮氏はその几帳面で細やかな性格から、文字や絵画の彫刻プロジェクトの大部分を担当しました。客は自分が気に入った字体を持ち込むか、当時流行していた街頭の代筆屋(書道家)に文字を書いてもらい、それを店に持ち込んでガラス彫刻の加工を依頼しました。こうしたガラス彫刻作品は、ガラスを切り出した後、まず専門業者に依頼してサンドブラスト(打砂)処理を行い、致光がその後の工程である薬液浸漬、研磨、手彫り、そして作品のニーズに応じた錫箔や金箔の貼り付け作業を担いました。
致光の看板もまた、店舗の大きな特徴の1つです。看板の字体は黎継賢氏の親友によって揮毫されたものでした。初期の看板は木板にペンキで店名を書いて作られていましたが、1986年から87年頃になってガラス製の看板へと掛け替えられました。当時のガラス店がすべて自店の看板にガラスを採用していたわけではありません。致光が自社でガラス看板を制作し金箔工芸を取り入れたのは、見た目の美しさはもちろんのこと、自社の技術水準を顧客へ直接示すためでした。制作過程では、まずガラスの裏面に文字の外枠を貼り、鋼砂を吹き付けて文字部分を凹ませた後、本物の金箔を貼り付けることで長年失われない光沢を生み出します。この自社製の看板は店舗の「生看板(看板商品そのもの)」となり、その高い生産技術と品質を雄弁に物語っていました。
1973年に黎継賢氏が病没すると、労恵芳氏が致光の経営を引き継ぎ、1984年に引退するまで守り続けました。その後は黎鳳蓮氏と従来の職人たちによって営業が継続されました。1999年8月、致光は正式に黎明開(ライ・ミンカイ)氏(黎鳳蓮氏の弟)と黄英昌(ウォン・インチョン)氏の共同経営へと譲渡されました。黎明開氏が引き継いだ後、アジア金融危機の後波やSARSウイルスの猛威に見舞われましたが、尖沙咀(チムサーチョイ)、中環(セントラル)、佐敦(ジョーダン)にある「中芸公司(Chinese Arts & Crafts)」のガラス工事をはじめ、大型オフィスビルや店舗の工事請負を獲得し、安定した事業展開を維持しました。
工程の変化に伴い、致光では数年前から全職の職人を抱えず、注文が入った際のみ日雇いの職人を手配するスタイルへと移行していきました。多くの伝統産業と同様に、ガラス・鏡業界も深刻な高齢化と後継者不足に直面しています。ガラスは重く危険を伴うため、若い世代が入業界を敬遠しがちだからです。同時に、業界の生態系は中国本土市場からの直接的な影響を受けています。従来のスタイルは、顧客が店舗に足を運んでサイズを指定し、その場で裁断するというものでした。しかし現在では、電話やネットを通じて注文し、工場から工事現場へ直接納品・取り付けを行う形へと進化し、利益率は大幅に圧迫されています。さらに本土の加工技術が成熟したことで、現在では本土の大規模工場のガラスの多くが香港の規格認証を満たすようになり、建築プロジェクトは地元の小売店を経由することなく完成品を直接輸入できるようになりました。これが伝統的な店舗の生存空間をさらに狭める結果となったのです。
厳しい市場競争の波に押され、致光玻璃鏡業は2024年4月、63年間にわたる実店舗の歴史に終止符を打ちました。黎明開氏によると、実店舗の閉店が発表された後、多くの馴染み客がこの期間を利用して額縁(フォトフレーム)を注文しに訪れたそうです。それらの商品を納品し終えたことで、致光はコミュニティにおける自らの歴史的使命を正式に果たし、静かにその幕を下ろしました。
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